村田周魚 むらた しゅうぎょ

 


村田周魚


掌に運があるとは面白し
盃を挙げて天下は廻りもち
しやぼん箱女房でかした初松魚
働いた顔は鏡に痩せ細り
花生けて己れ一人の座を悟る

1889-1967
本名:村田泰助
別号:海月洞。旧号・鯛坊
著述:
『明窓独語』(昭16)
『村田周魚句集』(昭29)
『川柳雑話』(昭30)

明治40年、柳多留三篇までを熟読して、俳句から川柳に転向。明治末年井上剣花坊を識り、大正2年柳樽寺川柳会同人。大正9年八十島可喜津(勇魚*)の勧めできやり吟社を興す(創立時は顧問)。昭和3年新年号から菊判となり、発行部数3000。10周年記念号(昭和4)を出すころには、東京はもちろん全国を代表する柳誌となった。
六大家と呼ばれた人びとの中では比較的地味な存在であり、著書も少く、作品的にも際立った個性を示していない。「人間描写の詩として現実的な生活感情を重んじる」という平淡な姿勢が、雑詠欄を〈日常茶飯〉と名づけたゆえん。大正末期の新興川柳勃興時には伝統・既成川柳の牙城として、かっこうの攻撃対象になったが、周魚は終始その姿勢を崩さたかった。

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