関東大震災の川柳

 明治以降、川柳は「主観の目」を持った。目の前に生起する事象、作者の内側の心理面をも表現する視点は、江戸期のような第三者的よそよそしさから、生々しい表現をも生んだ。
 明治の文明開化以降、日本が味わった最初の大禍は関東大震災であった。その時、川柳家たちは、その見たもの、感じたものを十七音に定着した。
 興味深いのは、帝都で直接震災の惨禍を目の当たりにした川柳家と、地方で新聞などの情報により震災を知った川柳家では、同じ川柳でも表現に温度差があることである。
 以下に、その一部分を紹介しよう。

震災当日の川柳

火と土と竹槍との洗礼       阪井久良岐 
子宝は無事ぞ裸の焼け出され  
十二世川柳
空ぢうの焔の下に朝を待つ    
白石維想楼

 まさに、大正12年9月1日のその日。幾人かの川柳家は、その思いを川柳にした。久良岐は、焦土と化した東京と暴動の恐怖を残し、十二世川柳は、九死に一生の中の子供の無事を詠み、白石維想楼は、目に焼きついたその夜をそのまま描いた。動天の最中にも川柳を見失わない川柳家の姿が垣間見える。


阪井久良岐の場合

悪い事大本教が云ひ當てる
四里四方黒焦になる恐ろしさ
ゆり返し店子の上に及ぶなり
金縁の眼鏡で汁粉買つており
焼跡の灰かきならしかきならし 
焼土の底から芽ぐむ江戸の春
復興に鼠算とは面白し

 久良岐は、富士見町の屋敷にあった。幸い母屋は倒れることなく火も入らなかった。しかし家を貸す店子の住いには大きな被害が出て、大家としてその修理に千円以上の借金ができたという。やや作品に余裕が感じられる。

井上剣花坊の場合

下町を武蔵野にして遷都説
たばにして人口をへす大地震
人間の知恵は人間だけの知恵
ボチボチと都会の水の断末魔
人間の巣を鳥の巣のやうにする
焼野原焼けない町の屋根が見え
避難所へ力かぎりの物を提げ
五十年かゝり一日でほろび
東京に半分鳴らぬ除夜の鐘

 その日、剣花坊は芝高輪の自宅にあった。家には火が回り、川柳人名簿と岡田三面子から借りた古川柳の史料を懐に抱き、命からがら芝公園へ避難した。見慣れた町の屋根が燃えていくのをただ見ているしかなかった。
 剣花坊は、半年以上に渡って「大正川柳」に震災の句を作り続けている。

前田雀郎の場合

なけなしの命を汽車の屋根へ積み
幽霊じやねえと東京から避難
跣足袋生きねばならぬ灰を背負ひ
被服廠かゝる處へつむじ風
着られない着ものばかりが焼残り
生きてゐるだけさと笑ふ配給所
しつぽりと売りつけられる焼残り
被服廠見て来てからの奢りなり

 翌大正13年3月に、川柳久良岐社より前田雀郎編で大震災句集『川柳 加良怒』が刊行された。

尾藤三笠の場合

バラツクの人には無駄な月もなし
かと思ふ美人バラツクへ入り

 18歳の三笠(一泉の祖父)は、昨年新築したばかりの茶舗・喜楽園を震災で喪う。
 14歳から川柳の投句に没頭してきたが、課題中心の募集には、ほとんど震災を直接描いた句は見られない。

  関東大震災の写真と川柳  
皇居前広場のバラック

焼跡へ乞食に劣る小屋を建て      今居卯木
バラックへ士族と書いて生残り     石井竹馬
バラツクにまたバラツクの朝が来る  前田雀郎

 一時避難のため各所にバラックが建てられたが、避難所生活は楽なものではない。「これが夢ならば…」と目をつぶるバラックの夜。しかし、翌朝には、バラックの上にも陽が昇り、これが現実であったことを思い知らされる。

被服廠の累々たる焼死体

行列は被服廠から地獄まで       加藤廣次郎
東京の鬼門にあたる被服廠           竹 葉
被服廠死人の指を抜きにくる      井上剣花坊
被服廠春画にされて浮ばれず      石井盗泉
被服廠見て来てからの奢也                 前田雀郎

 4万4千ともいわれる避難民のことごとくが亡くなった被服廠。実際に目にしたり身内に被災者が居た場合の作品と、新聞などの写真を見て作った地方柳人の作品には明確な温度差がある。しかし、川柳家は惨状に目をそむけなかった。

被服廠で焼かれる人の煙

五十億三日に灰と消えちまい      長谷川翠月
その後の火の手は人を焼く煙り    井上剣花坊

 最初の煙は、地震による火災だった。帝都を焼き尽くす焔は、3日続いたという。
 少し落ち着いてから町を見ると、各所に煙が上がっている。飯を炊く煙かと行って見ると、それは人を焼く煙だった。

被服廠で焼かれた後の人の骨

山が千人づゝの跡始末        加藤廣次郎

 木造家屋の多かった当時、コンクリート作りの建物は焼けても外側だけは残った。帝都の経済的象徴として三越呉服店の破壊を描くことでその他の被害を想像させる一句目と全てが灰燼に帰した東京の夕暮れにシルエットとなって残る三越に寂寥の思いを感じる二句目の違いは、前者が名古屋、後者が東京の作家という温度差か。

三越呉服店

大地震先づ三越をぶち壊し       米津直胤
落ちる陽の三越ひとつ染め残し    前田雀郎

 木造家屋の多かった当時、コンクリート作りの建物は焼けても外側だけは残った。帝都の経済的象徴として三越呉服店の破壊を描くことでその他の被害を想像させる一句目と全てが灰燼に帰した東京の夕暮れにシルエットとなって残る三越に寂寥の思いを感じる二句目の違いは、前者が名古屋、後者が東京の作家という温度差か。

上野の山から浅草方面を見る 
 下町方面は、みな焼けてしまった。
 上野の山から見たこの写真にも、どこまでも焼けた下町が続く。右上の森は、浅草寺。三角屋根の本堂の健在なのがわかる。その少し左に見える高い建物は、「浅草十二階」こと凌雲閣。既にこの時は半分に折れていた。

上野から海が見えたの騒ぎなり    前田雀郎

震災直後の新橋駅

小便と時計で駅に用があり      井上剣花坊

 皇居前広場のバラック。一時避難のため各所にバラックが建てられたが、避難所生活は楽なものではない。「これが夢ならば…」と目をつぶるバラックの夜。しかし、翌朝には、バラックの上にも陽が昇り、これが現実であったことを思い知らされる。

震災直後の西郷隆盛像

西郷へ張り紙をする知恵を出し     竹内蓼簔

 今日では、ネットや電話のシステムによる安否情報のやり取りができるが、当時は人の集まる所に張り紙をした。上野の西郷さんの銅像もご多分に漏れず、この写真を見た地方の柳人は、さっそく一句をひねった。

焼残った浅草寺と壊滅した仲見世

其中で一寸八分焼残り                横浜 混 太
焼けず毀れず観世音妙智力           竹内蓼簔
焼銅貨観音堂へ投げに来る            石井竹馬

 荒涼たる焼野原の中に浅草観音だけは焼けなかった。観音様の御神徳と思われた。
 一寸八分は、黄金の御本尊の大きさである。震災当日は、避難者が力を合せて延焼を防ぎ、この地の文化的財産を見事に守りぬいた。

崩れた浅草十二階こと凌雲閣

十二階五重塔があざ笑ひ        加藤廣次郎

 高層建築のさきがけとして、今日の東京スカイツリーのようなランドマークとしても人気があった凌雲閣は、あっさりと上部が崩れてしまった。これは、文化に対する文明の敗北のようにも見えたのかもしれない。

天皇陛下の御幸

御道筋紙の国旗が飜り          田中美水
萬歳の足駄に府下の霜柱               井上剣花坊

 荒涼たる焼野原の中に浅草観音だけは焼けなかった。観音様の御神徳と思われた。
 一寸八分は、黄金の御本尊の大きさである。震災当日は、避難者が力を合せて延焼を防ぎ、この地の文化的財産を見事に守りぬいた。

 安政の大地震の翌年の句集に現れた数少ない地震をテーマにした川柳。「地震」―「響く」の縁語構成で、「浄土房」に死者を暗示する以外、特に内容の薄い作品である。「柳風式法」の存在は、目の前の社会現象を描くという表現契機をことごとく奪い、単なる言語遊戯の閑文芸にしてしまったことは、これをもってしてもわかるだろう。

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