2.柳多留二つ目の川柳画
柳多留全167篇は、明和2年から天保10年ほどの約75年間に刊行されたものだが、呉陵軒可有、初代川柳亡き後の25篇からは、そのほとんどが「句会報」の役割をはたしている。したがって、単に句と作者名を並べることが目的となり、特に絵入りの川柳という発想は、ここでは生れなかった。
ひとつ例外は、天保3年(1833)11月の成田山不動明王奉納大会狂句合を掲載した柳多留122篇であった。巻頭に、四代目川柳である・人見周助の肖像を、当時の名絵師・香蝶楼国貞が描き、それに四世の句が添えられている。
出つといひとこへ竹の子つらを出し 四世 川柳
意味は、出ないでもいい所へ竹の子が顔を出したというもの。肖像を掲げられたことに対する自嘲の気持が現れている。この場合は、絵に句があとから付けられたものである。
絵と句の関係は密接に感じられるが、まだ、川柳のために絵を添えるという、宮尾しげをの定義する「川柳画」という発想にはなっていない。
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