川柳画のはじまり  
   



『誹風柳多留』5篇口絵


1.最初の川柳画
 宮尾しげをは、「川柳の賛に画をつけたものを、川柳画と云う」と定義している。川柳史上さいしょに登場した川柳画は、『誹風柳多留』5篇の呉陵軒可有の序文に添えられたものであった。これは、川柳画というより、当時の川柳風組連の主な名を幔幕に記し、これに
  あぶみへもつもれ初瀬の山桜
 という、おそらく呉陵軒の宣伝句を添えたもので、本の装飾的意味合いが強い。「あぶみ」は馬に乗る時に足をかける部分のことだが、「あふみ」すなわち「近江」につながり、当時大きな連(今でいう吟社のようなもの)の名前であり、「初瀬」も山の手の大きな連、「山桜」は、下谷の川柳風の旗本でもある「桜木連」を表している。いわば、広告にもなっている句といえる。明和七年のことである。
 柳多留も5編を迎える頃には、柄井川柳という点者が江戸の前句界を代表する存在となり、押しも押されもせぬ点者となっていった時代。この絵からは、その自信が伝わっ てくる気がする。
 以後、初代川柳や呉陵軒在世中には、絵と川柳がペアで描かれることは一度もなかった。したがって、この柳多留5篇の川柳画は、異例中の異例ということができよう。

 

 

2.柳多留二つ目の川柳画
 柳多留全167篇は、明和2年から天保10年ほどの約75年間に刊行されたものだが、呉陵軒可有、初代川柳亡き後の25篇からは、そのほとんどが「句会報」の役割をはたしている。したがって、単に句と作者名を並べることが目的となり、特に絵入りの川柳という発想は、ここでは生れなかった。
 ひとつ例外は、天保3年(1833)11月の成田山不動明王奉納大会狂句合を掲載した柳多留122篇であった。巻頭に、四代目川柳である・人見周助の肖像を、当時の名絵師・香蝶楼国貞が描き、それに四世の句が添えられている。
  出つといひとこへ竹の子つらを出し 四世 川柳
 意味は、出ないでもいい所へ竹の子が顔を出したというもの。肖像を掲げられたことに対する自嘲の気持が現れている。この場合は、絵に句があとから付けられたものである。
 絵と句の関係は密接に感じられるが、まだ、川柳のために絵を添えるという、宮尾しげをの定義する「川柳画」という発想にはなっていない。

 

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