大坂での発展  
   



教養文庫『誹風柳多留』初篇表紙より


大阪に、川柳(当時は《俳風狂句》と呼ばれていた)を伝えたのは、飛騨の国生れのそこうどうしょうろ素行堂松鱸という人であった。江戸中橋で医者を業とする坂倉氏で、二世川柳の門に入り、後に四世川柳から判者の允許を受け、文政十二年飛騨高山に帰って、郷里で俳風狂句を鼓吹、翌天保元年(一八三〇)には西遊して、同年晩秋に大阪の近江町に居を定めた。「東都川柳側素行堂松鱸」として、その年の十一月から地元連衆を集めた月並を開き、翌天保二年には『狂句梅柳』という『誹風柳多柳』と似た冊子を刊行しはじめた。その本の天保六年六月以ごろ刊行された『狂句梅柳』八編の序に次のような松の絵と句が掲載されている(図8)。
この句の「近江町」は、そこに住した松鱸を指すもので、難波津(大阪)で一本松(第一人者)であることを称えたものである。句に合わせて、松の大木が描かれたのは、絵と句が照応し合う最初の出逢いであった。
以降、『狂句梅柳』では、天保六年一二月頃刊の九編に「織姫の図と句」をはじめ四点の〈川柳画〉が添えられ、一〇編に四点、一一編に三点、一二編に二点、一三編に三点とレギュラーのように〈川柳画〉が登場することになる。
図9の場合、はじめて募集句の川柳作品(狂句)に絵が添えられた形となり、柳画一体の境地である〈川柳画〉という世界が誕生することになった。

 

 

 

 

 

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