八島五岳  
   



教養文庫『誹風柳多留』初篇表紙より


5.川柳画から川柳漫画へ
川柳に絵を添える発想は、大阪において生み出され、松鱸の『狂句梅柳』で定着した。これが、つぎの発展を迎えるには、さほどの時間を要しなかった。
江戸生れの画師で戯作者でもあり、俳諧や俳風狂句の実作者でもあった八島五岳が、大阪に移り住んで天保七年一一月に出版した『俳諧畫譜集』上・下は、五岳の序に「今ここに有声無声の画と句とを合せて一小冊を綴り和合集と号」とあるように、絵と句をマッチさせた先駆的出版物となった(図10)。「和合」とは、句と絵を相乗的効果によって響き合わせようという考えの現れである。

 

 

 

 
同じ五岳が、天保一二年(一八四一)年に大阪の河内屋茂兵衛から出版した『えほんやなぎたる畫本柳樽』初編は、まったく『俳諧畫譜集』と同じ体裁をとり、川柳(俳風狂句)と絵とを組み合わせて出版された。俳諧の句よりも川柳のほうが面白かったようで、この刊行は大ベストセラーとなった。翌年には、二編、三編が刊行され、天保一五年までに六編を刊行。同書二編には、初編の発行数が一万部を越えたことが記されており、当時の人気が偲ばれる。
折しも、天保の改革による出版統制の嵐を受けたが、『教訓柳樽』などと改題してうまく逃げている。内容はまったく変化をみせていない。さらに弘化年間にはいると、二代葛飾北斎こと葛飾たいと載斗が七編から一〇編まで継続されることになる。
この本の成功は、幕末から明治初期にかけて、『絵入柳樽』を模した多くの〈絵川柳〉書籍を輩出することになる。何でも絵があり、句を添えて「柳樽」といえば売れてしまうブームが巻き起こった。

 

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