狂句戯画  
   



   甚兵衛と九兵衛仕廻ツて小間物や

屏風と貼り交ぜ絵 勝川春亭画


狂句戯画
 次に、川柳が絵と出合うのは、〈貼り交ぜ絵〉としての登場である。〈貼り交ぜ絵〉とは、屏風などの装飾に張り交ぜにして用いる小型の絵からきたものである。屏風には、短冊や色紙などの他に浮世絵も貼り交ぜにされていた。葛飾北斎(宝暦一〇年〜嘉永二年)や渓斎英泉(寛政三年〜嘉永元年)、勝川春亭(明和七年〜文政七年)などが筆をとっているが、文化頃(一八〇四〜一七)から純粋な浮世絵風を離れて、漫画チックな表現が行われるようになっていった(図6)。
図6.屏風と貼り交ぜ絵 勝川春亭画(下)
   甚兵衛と九兵衛仕廻ツて小間物や
ここに至って、句と絵が対等の比重をもった作品が成立したといえよう。しかし、正確には、川柳点の句を用いたものばかりでなく、決して川柳と絵が対等な関係になったというより、川柳が貼り交ぜ絵に利用されただけといったほうが良いのかもしれない。
川柳に絵を添えて、〈川柳画>というジャンルの基を築いたのは、川柳の膝元・江戸ではなく、実は大阪であった。
江戸には『柳多柳』という川柳発表の伝統的形式があり、川柳宗家がこれらを司っていた。宗家といういわば〈権威〉から遠い大阪では、比較的自由な発想でモノを考えることができたようだ。

 

 

 

 

 

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